岡山の磐座


吉備の中山きびのなかやま
岡山県岡山市北区一宮


■吉備津神社の「奥宮」と思われる磐座、八畳岩

 古代の吉備国は、瀬戸内に面 して中国地方の中央部を占め、ヤマト王権に匹敵 する地域であることはまちがいないようだ。その 証と思われるものが、弥生時代最大の墳墓とされる 「楯築遺跡」の存在であり、 その造営を支えた富と力だったと思える。 いわば楯築遺跡をつくった勢力が、その後の吉備 国につながり、首長一族が拝した聖山が、「吉備 の中山」だったと考えられる。
 吉備の中山(162メートル)は、楯築遺跡の 東3キロのところに、なだらかな山容を横たえて いる。頼山陽は、山の姿が鯉に似ていることから 「鯉山」とよんだ。古く、岡山平野の大部分は、 「吉備の穴海」とよばれ、中山の麓まで海が迫り、 「吉備津」という港があったことが記録に残る。 中山とされる由縁は、備前と備中の国境に位置す ることからきているというが、分国以前の「吉備 の中心」という意ではないかともいわれている。
(『磐座百選』より一部抜粋)





楯築遺跡たてつきいせき
岡山県倉敷市矢部向山826


■弥生末期最大の墳丘墓に立ち並ぶ巨石群

 初めて訪ねたとき、これは古墳なのだろうかと 戸惑ったことを思いだす。墳丘に、五個の巨石が 環状列石のように立ち並んでいたからだ。高さは 2~3メートルほど、磐境に迷いこんだような印 象をうけた。しかも形状や大きさがバラバラなの だ。「楯築神社跡地」と書かれた石標があるが、 社殿はなく、中央部に、巨石を組み合わせた祠が 座している。祠の形状がまたなんとも奇妙な姿を している。注連縄が張られているためか、横から 見ると、あたかも祠が立 たて 石 いし を背負っているように 見え、仏像でいう光背のように見えなくもない。 ただ、立石の前にある石祠は、大正年間に設けら れたものだという。
(『磐座百選』より一部抜粋)





阿智神社あちじんじゃ
岡山県倉敷市本町12-1


■原始庭園「神の庭」を思わせる石組みの磐座

 阿智神社が鎮座する鶴形山(標高43メートル)は、 倉敷市の中心に存在する。かつて「吉備 の穴海 」とよばれた低地には市街地が広がり、倉 の風景で有名な「美観地区」には連日大勢の観光 客が訪れている。そこから歩いて数分のところに、 日本庭園の原形ともいわれる磐座群が存在する。 観光客のほとんどは、こうした磐座を知ることな く、倉敷を離れる。旅行ガイドをみても、阿智神 社や磐座を紹介したものはほとんどない。比べて 「大原美術館」を紹介するページの多さはどうだ ろう。私の「ひがみ」と笑われるかもしれないが、 なにか違うのではないかと思われてならない。そ の鶴形山は、山というよりこんもりとした丘に見 える。地図で見るとオタマジャクシのような形を している。
(『磐座百選』より一部抜粋)





大飛島洲の南遺跡おおひしますのみなみいせき
岡山県笠岡市大飛島


■「瀬戸内の正倉院」とよばれる長大な砂州と磐座祭祀

 海神(わたつみ) の降臨を仰ぎ、航海の安全を祈願した祭祀 遺跡が、瀬戸内の小さな島に存在する。笠岡諸 島・大飛島で発見された「大飛島洲の南遺跡」だ。 1962(昭和37)年、飛島小学校の校庭に、 鉄棒を設置する穴を掘っていたとき見つかったも ので、四回にわたって調査が行われている。結果、 山裾の巨石周辺から膨大な数の遺物が出土した。 祭祀の時期は、奈良から平安期とされ、海神への 祭祀がくり返し行われていたことが明らかになっ た。
(『磐座百選』より一部抜粋)




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