■吉備津神社の「奥宮」と思われる磐座、八畳岩
古代の吉備国は、瀬戸内に面
して中国地方の中央部を占め、ヤマト王権に匹敵
する地域であることはまちがいないようだ。その
証と思われるものが、弥生時代最大の墳墓とされる
「楯築遺跡」の存在であり、
その造営を支えた富と力だったと思える。
いわば楯築遺跡をつくった勢力が、その後の吉備
国につながり、首長一族が拝した聖山が、「吉備
の中山」だったと考えられる。
吉備の中山(162メートル)は、楯築遺跡の
東3キロのところに、なだらかな山容を横たえて
いる。頼山陽は、山の姿が鯉に似ていることから
「鯉山」とよんだ。古く、岡山平野の大部分は、
「吉備の穴海」とよばれ、中山の麓まで海が迫り、
「吉備津」という港があったことが記録に残る。
中山とされる由縁は、備前と備中の国境に位置す
ることからきているというが、分国以前の「吉備
の中心」という意ではないかともいわれている。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■弥生末期最大の墳丘墓に立ち並ぶ巨石群
初めて訪ねたとき、これは古墳なのだろうかと
戸惑ったことを思いだす。墳丘に、五個の巨石が
環状列石のように立ち並んでいたからだ。高さは
2~3メートルほど、磐境に迷いこんだような印
象をうけた。しかも形状や大きさがバラバラなの
だ。「楯築神社跡地」と書かれた石標があるが、
社殿はなく、中央部に、巨石を組み合わせた祠が
座している。祠の形状がまたなんとも奇妙な姿を
している。注連縄が張られているためか、横から
見ると、あたかも祠が立 たて 石 いし を背負っているように
見え、仏像でいう光背のように見えなくもない。
ただ、立石の前にある石祠は、大正年間に設けら
れたものだという。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■原始庭園「神の庭」を思わせる石組みの磐座
阿智神社が鎮座する鶴形山(標高43メートル)は、
倉敷市の中心に存在する。かつて「吉備
の穴海 」とよばれた低地には市街地が広がり、倉
の風景で有名な「美観地区」には連日大勢の観光
客が訪れている。そこから歩いて数分のところに、
日本庭園の原形ともいわれる磐座群が存在する。
観光客のほとんどは、こうした磐座を知ることな
く、倉敷を離れる。旅行ガイドをみても、阿智神
社や磐座を紹介したものはほとんどない。比べて
「大原美術館」を紹介するページの多さはどうだ
ろう。私の「ひがみ」と笑われるかもしれないが、
なにか違うのではないかと思われてならない。そ
の鶴形山は、山というよりこんもりとした丘に見
える。地図で見るとオタマジャクシのような形を
している。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■「瀬戸内の正倉院」とよばれる長大な砂州と磐座祭祀
海神(わたつみ) の降臨を仰ぎ、航海の安全を祈願した祭祀
遺跡が、瀬戸内の小さな島に存在する。笠岡諸
島・大飛島で発見された「大飛島洲の南遺跡」だ。
1962(昭和37)年、飛島小学校の校庭に、
鉄棒を設置する穴を掘っていたとき見つかったも
ので、四回にわたって調査が行われている。結果、
山裾の巨石周辺から膨大な数の遺物が出土した。
祭祀の時期は、奈良から平安期とされ、海神への
祭祀がくり返し行われていたことが明らかになっ
た。
(『磐座百選』より一部抜粋)